戦術の型図鑑
両翼包囲(包囲と迂回)
両翼包囲は、中央をあえて弱く見せて敵を誘い込み、両翼に配した精鋭で敵の側面から背後までを包み込む型。第二次ポエニ戦争のカンナエの戦い(前216年)で、ハンニバル率いるカルタゴ軍は中央にリビア人部隊と傭兵を配し、両翼に精鋭の騎兵と重装歩兵を控えさせた。ポリュビオスの『歴史』によれば…
内線作戦(包囲と迂回)
内線作戦は、分かれて連絡を保てずにいる複数の敵軍のあいだに割って入り、短い距離を活かして一方ずつ各個に撃破する型。1796年のイタリア戦役で、フランス軍はサルデーニャ軍とオーストリア軍という連絡の取れていない二つの敵軍の中央に位置するモンテノッテ付近でオーストリア軍側(アルジャントー隊)に戦力を集中し…
大迂回機動(包囲と迂回)
大迂回機動は、予想される正面からの進撃を避け、大きく迂回して敵の後方に回り込み、戦わずに退路を断って屈服させようとする型。1805年のウルム戦役で、フランス軍はマック将軍率いるオーストリア軍が予想していた黒い森方面からの正面進撃ではなく、大きく北へ迂回してドナウ川方面へ軍団を進めた。…
半月陣(包囲と迂回)
半月陣は、敵の突撃を陣形の隙間で受け流し、その隙に両側から回り込んで半円形に包み込む型。第二次ポエニ戦争のザマの戦い(前202年)で、スキピオ率いるローマ軍は隊列の間に通路を用意し、ハンニバル軍の戦象を素通りさせて無力化したうえで、ラエリウスとマシニッサの騎兵が敵の背後に回って攻撃した。…
退路遮断による包囲(包囲と迂回)
退路遮断による包囲は、敵の立てこもる地点を土木工事で二重に取り囲み、内へも外へも動けなくして屈服を待つ型。ガリア戦争のアレシア攻囲戦(前52年)で、カエサル率いるローマ軍はウェルキンゲトリクスの軍が立てこもるアレシアの周囲に全長約11マイルの内側の防塁を、さらにその外側に約14マイルの外側の防塁を築いた。…
斜線陣(突破と集中)
斜線陣は、陣形の片側だけを分厚く前に出し、そこで敵の一点を叩き崩してから全体を有利にする型。レウクトラの戦い(前371年)で、テーバイ軍はエパメイノンダス指揮下の部隊を50列以上の深さに厚く配置し、スパルタ側の王がいる部隊に狙いを絞って攻撃した。クセノフォンの『ヘレニカ』は…
楔形陣(突破と集中)
楔形陣は、陣形を三角形に尖らせて敵の隊列の隙間に打ち込み、そこから内側へ切り開いていく型。ガウガメラの戦い(前331年)で、マケドニア側はペルシア側の陣形に生じた隙間に対し、騎兵と歩兵の一部を楔形に組んで突撃した。『アレクサンドロス東征記』(アッリアノス)は、この突撃がダレイオス王の近くまで到達し…
砲兵の集中運用(突破と集中)
砲兵の集中運用は、多数の大砲を一か所に並べ、突破したい一点に砲撃を集めてから歩兵を送り込む型。ワグラムの戦い(1809年)で、フランス軍は100門を超える大砲を中央付近に集めた砲兵陣を編成し、オーストリア軍の中央への砲撃を経てマクドナルド隊の突破につなげたと、napoleon.orgの記事は伝える。
縦隊突撃(突破と集中)
縦隊突撃は、兵を横に広げる代わりに縦に重ねて隊列を組み、勢いをつけて一点に突き進む型。フランス革命戦争期(1792-1794年)のフランス軍歩兵について、歴史学者John Lynnの論文は、縦隊突撃・横隊・大隊方陣・散兵という複数の戦術要素が…
中央突破による分断(突破と集中)
中央突破による分断は、敵が自ら手薄にした中央を突いて奪い、敵軍を二つに割ってしまう型。アウステルリッツの戦い(1805年)で、連合軍がプラッツェン高地の中央から兵を動かして両翼への攻撃を支援した隙に、フランス軍のスール指揮下の部隊がその高地を奪取し、連合軍を二つに分断したと、napoleon.orgの記事は伝える。
パルティアンショット(欺きと誘い)
パルティアンショットは、逃げると見せかけて敵を追わせ、馬上で振り向きざまに矢を射かけて追撃側を消耗させる型。カルラエの戦い(前53年)で、パルティア軍はこの戦法を用いてローマ軍に大きな損害を与えた。プルタルコスの『対比列伝』クラッスス伝は、パルティア軍が敵に背を向けながら矢を射る技術に長け…
退避誘引(欺きと誘い)
退避誘引は、約束や礼儀を理由に自ら退いて見せ、勢いづいて追ってきた敵を有利な場所で迎え撃つ型。城濮の戦い(前632年)で、晋の文公は以前に楚にいたときの約束を理由に、楚軍に対して「三舍(一舍=三十里として、三度ぶんの距離)」退くと『春秋左氏傳』僖公二十八年は伝える。…
佯動による誘引(欺きと誘い)
佯動による誘引は、味方の内輪の様子を装った使者を送り、偽の情報で敵を思いどおりの場所に誘い込む型。サラミスの海戦(前480年)で、テミストクレスは自らの奴隷シキンノスを密使としてペルシア艦隊に送り、ギリシア軍が退却しようとしていると伝えさせた。ヘロドトスの『歴史』第8巻によれば…
疑兵の計(欺きと誘い)
疑兵の計は、人形を本物の兵に見せかけて敵の攻撃を誘い、消耗させたり油断させたりする型。安禄山の乱における雍丘の攻防(756年)で、張巡は千余りの藁人形に黒い衣を着せて夜間に城壁から下ろし、敵に矢を射させて数万本の矢を得たと『新唐書』張巡伝は伝える。その後、同じ手口を再び使い…
心理的動揺の誘発(欺きと誘い)
心理的動揺の誘発は、包囲した敵に故郷の歌を聞かせ、すでに負けたという思い込みを植えつけて戦意をくじく型。垓下の戦い(前202年)で、項羽の軍を包囲した漢軍の陣営から夜に楚の歌が四方から聞こえてきたことについて、『史記』項羽本紀は、項羽が「漢はすでに楚を得たのか。何と楚人の多いことか」と大いに驚いたと記している。
隘路の防衛(地形と守り)
隘路の防衛は、狭い通路に少数で立ちはだかり、敵の数の多さを打ち消して持ちこたえる型。テルモピュライの戦い(前480年)で、レオニダス率いるギリシア軍は狭い隘路にペルシアの大軍を迎え撃った。しかしlivius.org(歴史研究者Jona Lenderingのサイト)が伝えるヘロドトスの記述によれば…
半渡の計(地形と守り)
半渡の計は、川を渡っている最中の、隊列も態勢も整わない敵を狙って攻撃する型。淝水の戦い(383年)で、東晋の謝玄は前秦の苻融に対し「もう少し後退して、味方の軍が展開できるようにしてほしい」と申し入れた。『晋書』謝玄伝によれば、前秦軍が後退を始めたところへ晋軍が精鋭を率いて渡河・攻撃し、前秦軍は総崩れとなった。
背水の陣(地形と守り)
背水の陣は、味方の背後に川を置いて自ら退路を断ち、逃げられない状況で決死の戦いに追い込む型。井陘の戦い(前204年)で、韓信は一万の兵を先に出して川を背に陣を敷かせた。『史記』淮陰侯列伝によれば、趙軍はこれを見て笑ったが、退路を断たれた韓信の軍は全軍が死力を尽くして戦い、数で勝る趙軍を破ったという。
堅壁清野・遅滞持久(地形と守り)
堅壁清野・遅滞持久は、決戦を避けて敵の後を追いながら消耗させ、時間を味方につけて敵の力が尽きるのを待つ型。第二次ポエニ戦争(前217-前216年)で、ローマの独裁官ファビウス・マクシムスはハンニバル軍との決戦を避け、追尾と牽制によって消耗を強いる方針をとった。…
籠城戦による消耗誘発(地形と守り)
籠城戦による消耗誘発は、城壁と防御兵器に頼って持ちこたえ、攻める側の時間と兵力をすり減らして力攻めを断念させる型。シラクサ包囲戦(前214-前212年)で、シラクサ側はアルキメデスが設計したとされる投石機やクレーン状の装置を用いてローマ軍の攻撃を長期にわたって食い止めた。…
車懸りの陣(伝わり方が怪しい型)
車懸りの陣は、部隊を輪のように回転させながら次々と敵にぶつけ続けるとされる陣形。同時代の史料には見えず、実際の姿は確かめられない。第四次川中島の戦い(1561年)で上杉方が用いたと広く語られる陣形。WEB歴史街道(PHP研究所)に掲載された歴史家・乃至政彦の記事によれば…
長篠の三段撃ち(伝わり方が怪しい型)
長篠の三段撃ちは、鉄砲隊を三列に並べて交代で撃ち続けたとされる戦法。当時の記録には見えず、後世に付け加えられた説明だとする見方がある。長篠の戦い(1575年)で織田・徳川方が用いたと広く語られる。しかしbushoojapan.comの記事によれば…
空城計(伝わり方が怪しい型)
空城計は、城を無防備に見せかけて逆に敵に警戒させ、退却させたという逸話。史書の注釈者自身がこの話を虚構だと退けている。諸葛亮が陽平で司馬懿の追撃を退けたという逸話が広く知られる。『三国志』諸葛亮伝に付された裴松之の注は、東晋の王隠『蜀記』が伝える郭沖の「五事」の一つとしてこの逸話を引くが…
木馬の計(伝わり方が怪しい型)
木馬の計は、撤退を装って巨大な木馬を残し、その中に兵を潜ませて城内に運び込ませたという、叙事詩に伝わる計略。トロイア戦争を伝える叙事詩で語られる木馬の計略。ウェルギリウスの『アエネーイス』第2巻は、ギリシア軍が10年の戦いに見切りをつけたと見せかけて木馬を残して去り、トロイア側がそれを城内に運び込んだ夜…
八陣図(伝わり方が怪しい型)
八陣図は、石を積んで作られた64の塁が実在する一方、それがどのような陣形・戦術を表すのかは確かめられていない遺構。魚復県(現在の重慶市奉節県)の永安宮近くに、諸葛亮が築いたとされる八陣図の遺構があったと伝わる。『水経注』巻三十三は、江水が諸葛亮の陣塁の南を流れる平らな石の磧に、亮の造った八陣図があり…