睡蓮
印象派
クロード・モネ/1906年ごろ
どんな絵か
モネがジヴェルニーの自宅の池を描き続けた連作で、点数は250点前後とされる。1906年ごろの一枚はおよそ90センチ角のカンヴァス。水面と、そこに映る空や柳だけで画面が埋まり、岸も地平線も入っていない。
どこを見るか
上下がない。空は直接描かれず、水に映った像としてだけ画面に入る。だから見る人はどこを手前と決めていいか分からず、視線が止まらずに漂う。睡蓮の葉は横につぶれた楕円の反復とパターンで、これだけが水平の手がかりになる。奥ほど葉が小さく詰まり、それが唯一の遠近法の合図。
使われている技法
油彩。細かい筆あとを短く重ね、下の層を透かせて水の厚みを出す。葉と花は絵の具を盛ったインパスト、水は薄い層と、同じ画面で塗り方を変えている。晩年は白内障で色の見え方が変わったとされ、時期によって画面の色調が大きく違う。
描かれた背景
ジヴェルニーに水の庭をつくったあと、1899年ごろから睡蓮そのものを主題にしはじめ、亡くなる1926年まで描き続けた。晩年は壁一面の大作へ向かい、高さ約2メートル・合わせて約200平方メートルの8点が、パリのオランジュリー美術館の楕円形の二部屋に、死の翌年の1927年から据えられている。
解説動画: 睡蓮に行き着くまでと、未完に終わった大装飾/山田五郎 オトナの教養講座
睡蓮に行き着くまで: 1887年の舟遊びの絵を最後にモネは人物を描かなくなり、翌年から同じ景色を季節や時刻を変えて描く連作を始めたと説明する。積みわら、ポプラ並木、ルーアン大聖堂と続く。ようやく絵が売れて余裕ができ、1890年に借りていたジヴェルニーの土地と家を買い、三年後に買い増して池のある「水の庭」を作りはじめる。
なぜ睡蓮だったか: 池に日本風の太鼓橋を架け、1897年ごろから睡蓮を描き出す。故郷のル・アーヴルで海を描くところから始まり、水に映る光と色彩のゆらめきを追い続けた画家だから、この池は終の画題にふさわしく、そのために池を作ったとさえ言えるという。貧しい時代を支えた最初の妻を悼んで描き続けたのではないか、という解説者自身の見方も添える。
大装飾がこじれていく: 池を広げたのに絵はどんどん水面に寄っていく。1909年の連作展で部屋中を水に囲む大装飾を思いつき、ガラス張りの大アトリエを建てて着手する。当初は柳や藤も入れ円形の部屋を作る計画だったが、予算が議会で否決されて会場が変わり、天井の高さが足りず藤は諦めになる。1922年の納品契約のころには白内障で右目がほとんど見えていなかったという。
未完のまま置かれた部屋: 期限は何度も延び、1926年にまだ手を入れたいと言いながら亡くなり、大装飾は本人にとって未完で終わる。翌年に二十二枚のパネルが楕円形の二部屋に並べられた。当初は古いと言われて客も入らず、再評価は1950年代のニューヨークで、抽象表現主義の元祖として買われたからだという。ただし目に見える光と色彩を描いた具象の画家であって抽象ではない、と念を押している。