銀雀山漢墓竹簡
成り立ちと読まれ方
篇: 銀雀山漢墓竹簡整理小組
銀雀山漢墓竹簡は、1972年に山東省の漢墓から出た竹簡に『孫子』が含まれていた経緯と、そこから言えることの範囲を確かめる項目。
原文と書き下し
整理小組の「編輯説明」(1985年版)は、竹簡本『孫子』について「應是《孫子》十三篇的足本。可惜由於竹簡殘損甚重、已無法完全恢復全篇的原狀了」と述べる(応に是れ『孫子』十三篇の足本なるべし。惜しむらくは竹簡の残損甚だ重く、已に全篇の原状を完全には復し得ず)。
原文の意味
谷中信一の論文によると、1972年、山東省臨沂の銀雀山で、建設工事の現場から偶然、漢墓が二基見つかった。一号墓から4942枚の断簡などが出て、うち『孫子兵法』は513片(完全な簡8枚、竹簡233枚分に相当)、『孫臏兵法』は280片(完全な簡75枚、222枚分に相当)と整理された。埋葬の年代は、副葬された銭と、二号墓から出た暦譜から、前134年から前118年の間(前漢の武帝期)とされる。
篇の中での流れ
整理者が挙げる竹簡本『孫子兵法』の上篇の篇名は、計・作戦・謀攻・形・勢・実虚・軍争・九変・行軍・地形・九地・火攻・用間の順で、現行本の十三篇と同じ並びである。ただし虚実篇に当たる篇名は「実虚」の順に書かれている。
注釈で読みが割れるところ
竹簡が書かれた時期と、書物が成立した時期は別の問題である。論文は、竹簡が劉邦から武帝までの歴代皇帝の諱を避けておらず、諱で述作年代を判定することはできなかったとし、書体も早期の隷書で、文帝・景帝・武帝の頃の書写と推定できるが、それは各文献の成立年代を示すものではない、と述べる。
よくある言い換えとのずれ
「銀雀山の出土で孫武の実在と作者が確定した」という言い方をされることがあるが、谷中信一の論文は、出土が長年の論争に決定的な終止符を打つとされたと紹介するにとどまり、同じ論文が、竹簡から各文献の成立年代を判定することはできなかったとも書いている。