十三篇と八十二篇

成り立ちと読まれ方

篇: 『史記』・『漢書』藝文志

十三篇と八十二篇は、『史記』が十三篇、『漢書』が八十二篇と書く数字の食い違いと、竹簡本が示す形を確かめる項目。

原文と書き下し

『史記』で呉王闔廬は「子之十三篇、吾盡觀之矣」(子の十三篇、吾尽く之を観たり)と言う。『漢書』藝文志は兵権謀に「吳孫子兵法八十二篇」(呉孫子兵法八十二篇)と載せる。

原文の意味

『史記』が伝える孫武の書は十三篇で、『漢書』藝文志の「呉孫子兵法」は八十二篇と数え、二つは一致しない。谷中信一の紹介では、銀雀山の竹簡本『孫子兵法』は「十三篇及び佚文四篇と篇題木牘1枚」に復元され、『漢書』『隋書』が挙げる書名・篇数とも、『四庫全書總目提要』の十三篇とも一致しないとされる。

篇の中での流れ

十三篇という数え方は、『史記』の闔廬の言葉と、十一家注孫子の篇立てに共通する。八十二篇のうち十三篇以外の部分が何だったかは、『漢書』の記載だけでは分からない。

注釈で読みが割れるところ

八十二篇と十三篇の関係の説明は一つに定まらない。維基文庫の十一家注孫子のページの前書きは、杜牧が「武書は本と数十万言、皆な曹操其の繁剰を削り、其の精粹を筆して此の書を成す」と述べたと紹介する。一方、銀雀山の竹簡本は前134年から前118年の間に埋葬された墓から出ており、十三篇の形が曹操より数百年前にあったことは言える。ただ、八十二篇のうち十三篇以外が、竹簡の佚文四篇と重なるのかは、この資料からは決められない。

よくある言い換えとのずれ

「もとは八十二篇あったものを曹操が十三篇に削った」という話が語られることがあるが、竹簡本が示す十三篇の形は曹操より数百年前の墓から出ており、この話だけで十三篇の成り立ちを説明することはできない。