写実主義

近代(19世紀)

1840〜1870年ごろ/フランス

どんな様式か

英雄も神話も描かず、目の前にいる農民や労働者を、そのままの大きさと重さで描いた絵。美しく整えないこと自体が主張だったと解釈されることが多く、題材ではなく扱い方が新しかった。土や布の質感、汚れや疲れまで画面に残す。

見分け方

色が全体に暗く、茶と灰が多い。顔は理想化されず、しわも日焼けもそのまま出る。主役が真ん中で目立たないことも多く、群像が横一列に並ぶ。ロマン主義のような劇的な光は使わず、曇り空のような拡散光で均一に照らすので、影がやわらかい。

いつ、どこで

1840〜60年代のフランス。クールベは《オルナンの埋葬》で、無名の村人の葬列を縦約3.1m×横約6.7mという歴史画の大きさで描き、1850〜51年のサロンで騒動になった。1855年のパリ万博で落選すると、会場の近くに小屋を建てて個展を開いている。

代表的な画家

ギュスターヴ・クールベ、農村を描いたジャン・フランソワ・ミレー(落穂拾い)、風刺画から来たドーミエ。クールベは天使を見たことがないから描かないと語ったと伝えられ、その姿勢が見たものだけを描くという原則として受け取られている。

解説動画: クールベとミレー、写実主義と呼ばれた二人の事情/【公認】オトナの教養CH【山田五郎 切り抜き】

クールベをどう位置づけているか: 印象派が憧れたもう一人の先輩としてクールベを紹介している。地主の家に生まれ、法律を学ぶという名目でパリへ出てほぼ独学で描いた人で、落選続きの頃の自画像が《絶望》。1849年、村の居酒屋で昼食のあとをだらだら過ごす男たちを描いた《オルナンの食休み》がサロンで二等賞を取り、国の買い上げになって以後は無審査で出せる資格まで手に入れたと説明している。

二等賞から一転して叩かれた理由: その評価の裏には前年の二月革命があり、労働者が偉いという空気で審査の基準も動いていたという見立てを示している。二年後、同じ村の葬式を約3m×6mの大きさで出すと今度は徹底的に叩かれた。ナポレオン三世の帝政で保守派が巻き返し、労働者を描くこと自体が煙たがられたこと、この大きさは歴史画のものだという反発が理由だと言う。

自分で個展を開くという手: 1855年のパリ万博に向けて、文化大臣が四万フランで買うからちゃんとした絵を描けと持ちかけたのを断り、会場の真ん前に自前の建物を建てて個展を開いた。史上初の個展と言われ、そこで配った文章が後にレアリスム宣言と呼ばれる。自分でやるという手があると示したことが、印象派が自前の展覧会を開く最初のきっかけになったと説明している。

ミレーは農民画家になりたかったわけではない: ミレーはノルマンディーの地主の家の出で、パリの美術学校で歴史画家に学んだ人だと言う。1848年のサロンに出した《箕をふるう人》が、二月革命の直後という時期に労働を讃える絵として絶賛され、国から注文まで来た。それが農民画家という評価の始まりで、本人はむしろ歴史画をやりたかった。聖書の物語と農村の暮らしを折衷していったので、写実主義の画家という括りは実はずれるという見方を示している。