囲魏救趙
勝戦計
計の順: 第二計
囲魏救趙は、包囲された趙を助けるのに趙へは向かわず、手薄な魏の本国を衝いて包囲を解かせる計。
計名と解語(原文と書き下し)
囲魏救趙。「共敵不如分敵、敵陽不如敵陰」(敵に共するは敵を分かつに如かず、敵の陽を敵とするは敵の陰を敵とするに如かず)。
解語の意味
原文は、敵の主力に正面から立ち向かうより敵の勢力を分散させるほうがよく、敵のあからさまな強み(陽)を攻めるより敵の手薄な裏側(陰)を攻めるほうがよいと説く。按語は、勢いの強い流れは避けて導き、弱い流れは堰で塞ぐという治水の喩えを置き、そのあとに、斉が趙を救ったときの史記に見える孫子の田忌への言葉を例として引く。
名前のもとになった故事
その孫子の言葉は、史記・孫子呉起列伝の桂陵の戦いの場面に見える。魏が趙を攻め、趙の求めで斉が動くと、威王は田忌を将、刑を受けた身だからと将を辞した孫臏を師とした。孫臏は、精鋭が外に出て老弱の残る魏の大梁へ急げば、魏は趙を放して救いに戻り、一度の動きで趙の囲みも解けて魏の疲れにも乗じられると説く。田忌はこれに従い、魏は邯鄲を去って桂陵で斉と戦い大敗した。
故事と成立でどこまで確かめられるか
史記の桂陵の場面に年は無く、魏の将の名も出ない(龐涓が将として現れるのは十三年後の馬陵)。『孫臏兵法』擒龐涓篇は、斉が救おうとした相手を衛と書き、孫臏が南の平陵を攻めるよう進言し、桂陵で龐涓を捕らえたと結ぶ。同じ戦いの筋が二つの文献で違い、どちらが実際に近いかはここでは確かめられない。按語自体は年も戦場の地名も挙げず、「囲魏救趙」の四字も史記のこの巻には出ない。
よくある言い換えとのずれ
本丸を直接攻めず弱点を突く、という一般的な処世訓として広まることがある。按語が引くのは、喧嘩を止める者は打ち合いに加わらないという孫臏の喩えである。史記では、邯鄲を囲んだ魏軍の精鋭が国外に出て本国が手薄なことを前提に、魏は趙を放して戻ると孫臏が見込み、その通りになった。弱点なら何でも突けば足りるという話ではない。英語の動画(China: Stories & Wisdom)は、龐涓と孫臏の因縁を語るが、結論は私怨に流されない計算だとする。