擬洋風建築

呼び名と様式

時代: 明治以降

在来の技術を持つ大工棟梁が、洋風を見よう見まねで組み立てた建築です。幕末から明治初期の庁舎・学校・病院に多く、木造の軸組へ洋風の意匠を載せた点で本格的な洋風と分かれます。

どんな材料・造作か

骨組みは在来の木造軸組のまま、外に洋風の意匠をまとわせた建築です。壁は漆喰の塗り込めか下見板張り、開口には上げ下げ窓、正面には塔屋やベランダを立て、柱型・アーチ・手すり子といった洋風の部品を、大工が木と漆喰へ置き換えてつくります。見上げれば軒下や妻に和の彫刻が残り、屋根は桟瓦葺という取り合わせも多く見られます。玄関の車寄せや手すりには彫刻が載り、棟梁の手の内がそのまま出ます。

見分けの決め手

洋風に見える部分が、何でできているかを見ます。石の柱型に見えて木に漆喰を塗ったもの、石積み風の目地が漆喰へ線で引かれたものが並べばこの系統です。長野の旧開智学校校舎は正面の車寄せに雲形の彫刻を載せ、山形の旧済生館本館は塔屋を積み上げた三層楼として残り、洋の骨格に和の細部が混じる作りが外からたどれます。窓の割り付けが左右で揃わない例もあり、図面より現物で決めた跡が残ります。

いつ頃のものか

幕末の開港場に始まり、明治初期の1870年代に庁舎・学校・病院で数多く建ちました。地方が新しい役所と学校を必要とした一方、設計にあたる建築家がまだ育っていなかったためです。長野の旧開智学校校舎は1876年、山形の旧済生館本館は1878年、北海道の豊平館は1880年の竣工で、1880年代後半に様式建築へ移ると作られなくなります。地域によっては明治の後半まで建ち続け、年代の幅は一様ではありません。

取り違えやすい相手

雇われた外国人技術者が設計した洋館は、煉瓦や石を実際に積んで壁で荷を受けます。後の様式建築は工部大学校などで学んだ建築家の設計で、柱頭や軒の割り付けが西洋の規範どおりに揃い、辰野式の煉瓦と白い帯もこちらに入ります。近代和風建築は逆で、洋風の設備を備えながら、客を通す座敷まわりは和風のまま仕上げます。呼び名は後年に付いたもので、どこまでを含めるかは論者によって幅があります。