新古典主義

西洋の古典

1760〜1830年ごろ/フランス

どんな様式か

ロココの甘さを捨て、古代ギリシア・ローマの彫刻のような明快さへ戻ろうとした絵。輪郭をはっきり引き、余計な飾りを削る。主題も恋愛から公のための誓いや犠牲へ移り、絵が道徳を語る道具として使われるようになった。

見分け方

線が主役。彫刻を横から照らしたような硬い陰影がつき、筆あとは見えない。人物は舞台のようにシンメトリー構図で横一列に並び、背景は柱やアーチだけで空っぽに近い。色数は少なく、赤や青が記号のように置かれる。うねる曲線が消えるのがロココとの差。

いつ、どこで

ヘルクラネウムが1738年、ポンペイが1748年に発掘され、古代がじかに見られるようになったことが出発点。ヴィンケルマンの古代美術論が理論を与えた。フランス革命とナポレオンの時代に国の様式となり、宮廷趣味の否定として各国へ広がっている。

代表的な画家

ジャック・ルイ・ダヴィッド(ホラティウス兄弟の誓い)と、その弟子のアングル、グロ、ジェラール。ダヴィッドは革命政府とナポレオンの双方で絵を担ったため、画面の作りがそのまま政治の言葉になった例として読まれることが多い。

解説動画: ダヴィッドとその弟子たち、絵が宣伝だった時代/【公認】オトナの教養CH【山田五郎 切り抜き】

ナポレオンの絵が何枚もある理由: ダヴィッドが描いた馬上のナポレオンが5枚あるのは、各地に飾って偉大さを宣伝するためだったと説明している。写真のない時代、絵や彫刻は思想や信仰を伝える強力なメディアで、描かれることで対象そのものがカリスマ化していくという見方を示す。もとはスペインとの贈り物の交換話から始まり、ナポレオンが気に入って追加させたのだという。

ダヴィッドがどういう画家だったか: ダヴィッドは教科書に載る画家という以上に、当時ヨーロッパ中が認めるフランス一の画家だったとしている。革命ではロベスピエール側について《テニスコートの誓い》や暗殺事件を主題にした絵を描き、失脚とともに投獄された。ルイ16世の処刑に賛成票を投じていたため王政復古後は戻れず、亡命先のベルギーで没する。権力に近すぎた例だという。弟子は400人以上いて、19世紀のアカデミーは彼の系譜で埋まった。

弟子アングルの意地: 弟子のアングルは1780年に南フランスに生まれ、17歳でパリのダヴィッドのもとへ入った。イタリアへ発つ直前に出した《玉座のナポレオン》が、細部と質感にこだわりすぎて生き生きしていないと叩かれ、認められるまで帰らないと決めて18年間イタリアに留まったという。ラファエロを尊敬したというが、うねる形と陶器のような肌はむしろマニエリスム寄りではないかという見方を示している。

もう一人の弟子グロ: もう一人の弟子グロは細密画家の子で、イタリアでナポレオンに引き合わされ、居合わせた戦いをそのまま描いて英雄像の最初の一枚を作った。旗を持って突っ込む構図は後の《民衆を導く自由の女神》の原型になったと言われる。ただ大画面では勢いも奥行きも出ず、師の工房を引き継いだあとは実力が追いつかず、1835年に自ら命を絶ったと伝えている。