遺稿の刊行とマリーの序文
書の成り立ちと読まれ方
篇: 成り立ち
遺稿の刊行とマリーの序文は、クラウゼヴィッツの死後、妻マリー・フォン・クラウゼヴィッツの手で遺稿がまとめられ、世に出た経緯を扱う項目。
『戦争論』のどこにあるか(篇と章)
1832年刊行の『戦争論』第一部の巻頭に置かれた序文(Vorrede)。1832年6月30日、ポツダムのマルモア宮殿にて執筆。
原語と原文
「Es wird mit Recht befremden, daß eine weibliche Hand es wagt, ein Werk von solchem Inhalt wie das vorliegende mit einer Vorrede zu begleiten.」(このような内容の書物に女性の手が序文を添えるとは、いぶかしく思われて当然であろう)。署名は「Geschrieben im Marmor-Palais bei Potsdam, den 30. Juni 1832. Marie von Clausewitz」(1832年6月30日、ポツダムのマルモア宮殿にて記す。マリー・フォン・クラウゼヴィッツ)。
クラウゼヴィッツの言っていること
序文でマリー・フォン・クラウゼヴィッツは、軍事書に女性が序文を寄せることのいぶかしさを自ら述べたうえで、この草稿が夫の生涯最後の十数年をかけた仕事であったこと、夫の遺志に従って自分がこれを世に出すに至った経緯を語る。『戦争論』は1831年11月のクラウゼヴィッツの死後、1832年から1834年にかけて、彼女の手によって世に送り出された。
研究者の間で読みが割れるところ
マリー・フォン・クラウゼヴィッツが、単に原稿を整えて世に送り出す役割にとどまったのか、それとも編集の過程でより踏み込んだ関わりを持ったのかについては、確かめきれない。
よくある引用とのずれ
『戦争論』が著者自身の手で完成させられ、単独で世に出された書物であるかのように紹介されることがあるが、実際には著者の死後、妻の手によって編集・刊行された遺稿集であるという成り立ちを持つ。